文脈は推測してください

藤圭子が出てきた当時は、まだ「演歌」っていう音楽ジャンルが生まれたばっかりで、いま一般に「演歌」として聴かれているものとは、音楽そのものも、世の中の受け取り方もまるで違います。まったく異質なものですから、今の「演歌」が嫌いなのに藤圭子は聴けちゃうっていうのも、ぜんぜん不思議じゃないですね。文芸の分野にまで影響を与えた、特異な存在感を持った表現者だったって言うしかないんじゃないでしょうか。
その一方で、これは当時のテレビを観ていないと感覚的にわかりづらいかもしれませんが、デビューしてから数年間、藤圭子はアイドルでした。あえて「ただのアイドル」っていう言い方をしてもいいと思います。「歌手」っていうくくりだけでは、当時の受容のされ方をうまく説明できません。あのルックスと、喋り方と、歌ってるときの顔つきと、歌ってないときの挙動不審な感じと、近づきがたい雰囲気と、その一方でバラエティー番組にもバンバン出てしまう敷居の低さなんかを考え合わせると、藤圭子はよくも悪くも「アイドル」だったです。アイドルとして見られていたので、ちゃんとレコードが音楽作品として聴きこまれていない。だからなんとなく「伝説」として語り継がれているだけで、純粋に歌手としての評価が確立していないのです。

たしかに「万人に気に入られることを志向する」のがアイドルの必須条件だと考えたら、藤圭子は元からそんなつもりはないし、むしろ薄気味悪いおねーさんっていう雰囲気も多分にあったので、アイドルというイメージにはそぐわないかもしれません。でも実際にはミーちゃんハーちゃんに騒がれた部分が大きかった。一部の熱狂的なファン以外に、「スター」としてではなく、自分のためだけに歌ってくれる孤独な表現者として藤圭子を正面から受け止めた人が、当時どれだけいたでしょうか。魂のレベルにまで心を動かされた人が大多数だったとしたら、あんなに急速に人気が冷え込む道理がありません。
「あんな歌が歌えたのにどうしてアイドル扱いだったんだろう」というよりは、「アイドルとして扱う以外に対処のしようがなかった」というほうが近いでしょう。
引き出しのどの部分に藤圭子を収めたらいいのか、判断がむずかしい。それまでの歌手とは這い出してきた穴がぜんぜん違う感じだし、美人に見えないこともないけど、なんか垢抜けないし、しゃがれたヘンな声で歌うし、でもそれもひっくるめてなんかやっぱりカワイイ気もするし、貧乏から這い上がってきたところがケナゲだし、なんかレコード売れてるしみたいな流れで、実態がつかめないまま風船みたいに人気が膨れていったという点で、アイドル的だったんだと思います。まともに藤圭子を受け止めたら、自分の中の闇に向き合うことになるわけで、そこまで付き合うほど国民はヒマじゃなかったと。

謡曲の黄金時代、絶頂期ですから。いい歌手もいい歌も次々に出てくるから、そっちを追っかけてたほうが楽しい。大衆はべつに藤圭子がいなくたってぜんぜん困らない。そして結婚したことで、「藤圭子物語」がいったん完結したことも大きかったですね。昭和46・47・48年は、歌謡界が音を立てて変わっていったっていうか、1年ごとに風景がまったく違います。48年はもうCBSソニーの黄金期になってて、世の中の空気が違う。藤圭子は完全に過去の人です。ファンはそんなことは認めないでしょうが、ぼんやりと歌番組を見て満足してた私のような一般人にしてみたら、歌謡曲にはいい歌がありすぎて、藤圭子にかまけてるヒマなんかなかったです。

藤圭子の人気が爆発したのも潮が引くように人が離れていったのも、結局は「タイミング」の問題でしょう。国民の心理的なムードを抜きにして評価するのも、それはそれでむずかしい。当時の生活感覚で聴いたときに初めてわかる味わいというのも、残念ながらあると思うんです。純粋に業績だけを評価するということが一度もなされないまま、すでに年月が経ってしまった事実があるので、「タイミング」という面でも藤圭子が今後再評価されることはないと私は考えてます。蓄積された「人の記憶」を直接刺激する性質が強い歌手だと思うので。だからまともな形でアルバムがCD化されないのに腹を立てながらも、藤圭子からしょーがねーかなと思ったりもします。

私の場合は、世間で藤圭子が語られるときの文脈と自分の実感に大きな隔たりがあったので、できる限りいろんな「手」を使って、納得がいく自分だけの藤圭子像を作ろうとしました。ポイントは、藤圭子には「陽」の方向に引っ張る強い生命力が感じられることと、いろんな意味でヘンな人だったということです。その「生命力の強い不思議ちゃん」というイメージを表現しようとして、あれやこれや画策してみました。どこかで聞いたような借り物の言葉は使わないようにして、自分の記憶と純粋な音の印象だけを材料にして書きました。これまでほとんど共感してくれた人はいません。でもそんなに本質は外してなかったんじゃないかと今でも思ってます。

おっしゃるように、不世出の才能が大事に育てられることがなく終わってしまったという現実はあるんですけど、大事に育てられて、それが成功した瞬間は一度はあったんです。それがアルバム『新宿の女』だったんじゃないでしょうか。『新宿の女』では、ただ藤圭子という素材を目の前に置いて、その歌手としての特性をどう活かしたらいい作品ができるか、それだけを考えてアルバムづくりがなされてます。出来上がった結果がその証拠です。『新宿の女』では藤圭子の可能性は全方位に広がっていました。大事に育てれば、ポテンシャルはいかようにも開発されるはずでした。でも早くも次の『女のブルース』は、"藤圭子" のパブリックイメージに沿った作りになっていて、大衆の "誤解" をわざわざ増幅する結果になっている。男・女・酒・泪みたいな世界観は、阿部純子さんの実際からは最も遠いコンセプトなのに、その後歌謡界でニューミュージック系の勢力が強くなると、藤圭子はますますそういう閉ざされた世界の中に追い込まれていきました。

矢切の渡しが元々ちあきなおみの歌だったって、知らない人も多いんでしょうね。ちあきの矢切は情緒纏綿として、それはそれは素晴らしかった。それをどっかの男性歌手がなんの哀切もない平べったい歌におとしめてしまいました。あの男性歌手あたりから、"いわゆる" 演歌歌手というものの「構え」みたいなものが出来上がって、なんだかどいつもこいつもああいう歌い方をするようになった。「演歌歌手」っていうジャンルができた。「演歌的」なパターンの発声と節回しが上手にできれば、ごく狭い世界の中で「歌手でござい」と言えるようになった。
しかし歌謡曲に演歌もクソもありません。狭い世界の外側にいる人にも普通に届く表現力があってこそ本物の「流行歌手」です。「演歌歌手」ではなかったちあきなおみにはそれができた。いろいろ考えさせられます。

「ムカつく」とかいう言葉を使うこと自体受け付けない人が多いのでね。大事な藤圭子は、キレイな言葉で花を愛でるように表現しなければいけないらしいです。でも藤圭子ってそんな平板で当たり障りのない記憶だったんですか、って私は言いたかったのです。「ヘンな人」っていう部分を無視しちゃったら愛嬌もチャームもこぼれ落ちてしまうし、型にハマらない優れて人間的な藤圭子の歌唱を十分に享受できないでしょう。好きでいっしょになってもたぶん1週間ももたないだろう、みたいな感じの芸術家が歌う歌もオツなもんです。

たとえば北島三郎なんかも、最初の頃は目もくらむような天才ぶりを発揮していましたが、藤圭子も同様に、流しの記憶が体に染みついていた頃は、何か一瞬にして人の心を掴む動物的な勘みたいなものが生きていたのかもしれません。

若い頃の北島三郎は鬼のように上手いです。しかもああいう「演歌っぽい」歌い方っていうのは、北島三郎が確立してみんなが真似するようになったと言ってもいいわけですね。でもぜんぜん土台が違う。先駆者になった天才っていうのはやっぱり凄いもんです。

 

まともな歌手

んで?

売れてんの『藤圭子劇場』は。

どっちでもいいけど、通販限定のブックレット付きBOXセットなんていうのは、しょせんオモチャである。*1

相変わらず藤圭子はオモチャ扱いだ。マニアの慰みもんだ。狂った時代が産んだ徒花でしかなく、まっとうな歌手だとは思われていない。

まともな歌手は、ただむき出しでペラッとアルバムを出して、あとはほっとくもんだ。

渋谷公会堂と『圭子の人生劇場』と、それから『圭子のわらべ唄』を黙ってCD化して、あとは野となれ山となれというのが正しい行き方である。

そうして黙って発売されたあとで、山野楽器あたりにイジってもらうのが幸せなありかただ。

近ごろ銀座山野楽器なんかでは、「きっとあなたもジャズが好きになる」とか言ってトンチンカンな店頭企画をやっているが、案の定そんなものに足を止める人間はいない。「秋=ジャズ」っていう発想がもうダメ。春夏秋冬のべつまくなしに聴き続けるか、まったく触りもしないか、どっちかだよジャズっていう音楽は。

そんな間の抜けたことをやるくらいなら、ギターを持ったふじけーこのデッカイ看板をおっ立てて、「よみがえる藤圭子」とかテキトーなフリップを貼り出して、シブコーの「銀座カンカン娘」と「有楽町で逢いましょう」をスピーカーでガンガン鳴らしてやればいい。少なくとも人だかりはできるぜ。「これはなんだ」って言って外人も喰いつくべ。音のインパクトは絶対だから。でそこに『歌いつがれて25年』をずらっと並べときゃいいんだ。その脇に『知らない町で』をちょろっと置いとくとオシャレ度もアップするだろう。

それもこれも、アルバムが単体でまっとうにCD化されればの話である。

 

*1:もちろん通販のBOXセットなんか買うわけがない。 これは「ファンに対する贈り物」だろう。 だからおれは、なんにしても 「ファン」ってやつが嫌いなんだ。 自分がプレゼントをもらったからうれしい。 自分に "ある種の愛情" を振り向けてもらったからうれしい。 自分だけ喜んでそれで終わりだ。 「ご冥福をお祈り」して自分だけでウットリしている。藤圭子は「偉大な歌手」なんだろ? それが、豪華ブックレット付きBOXセットなんていう「大人のオモチャ」の中に封印されて、 しかも中身は味噌もクソもいっしょくたの抱き合わせ販売だ。 それをファンは「自分のために作ってくれた」って言ってありがたがる。 自分なんかどうだっていいよ。 ただ作品が本来の形で生き続けてくれりゃあいいんだ。