藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

『圭子のにっぽんひとりあるき』 B面

『知らない町で』のほうはある程度「藤圭子」を意識した曲作りがなされているようですが、
『圭子のにっぽんひとりあるき』は、日本各地を題材にして
石坂まさを藤圭子そっちのけで自分の世界観を好きなように展開した作品と言えるかもしれません。
いわば藤圭子に勝負を挑んだ形ですが、
圭子師匠は正面から受けて立ち、
変幻自在の歌唱でその実力を満天下に示しました。

藤圭子のオリジナルのLPを通して聴いていると、
私はいつも心の中で嗚咽をこらえきれなくなります。
時期がバラバラな曲を寄せ集めたものではそうはならないんですけど。
1枚のアルバムというカタマリに対する藤圭子のトータルな意識が、
曲を聴き進めることによって順序よく心の中に積み重なってくるからかもしれません。
情念というのは瞬間風速的に放出されるものではなく、
小さなことが蓄積されて醸成されるものだからです。

いずれにしても藤圭子は、
北風のように強引に聞き手をねじ伏せることもできれば
太陽のような慈愛をもって自分の世界にいざなうこともできる、
類まれな力を持った歌手だと、私は思っています。

 


<1974年(昭和49年)9月発売>

1. お遍路お礼巡り
2. 博多の子守唄
3. 沖縄の四季
4. 古都
5. 東海武将伝
6. 涙の越前海岸

■■音源消失■■

 

最後の「涙の越前海岸」なんかは、
これだけ聴けばただの「ド演歌」で終わっちゃうかもしれません。
しかしアルバム全体を通して多彩な曲を聴いてきてここに辿り着くと
たとえば昔のキャバレーのような、もっと言えばチンドン屋みたいなこのサックスの音も、
狙ってやってる高度な遊びの一つなのだということがわかるはずです。
『圭子のにっぽんひとりあるき』は、そういう遊びが緻密に詰まっている傑作だと思います。

 

言い換えれば、圭子がスタジオに入った時点で
『圭子のにっぽんひとりあるき』は
実質的には半分以上完成しちゃってた。
そんな圭子のアルバムは後にも先にもこれしかない。
それだけクリエイター側の創造力が凄かったんだ。
石坂まさをを筆頭とする作り手が、
本気で詞を書いて、曲を作ってアレンジして、
初めて藤圭子と互角にわたりあえる作品群を作り上げた
これだけ作家性の強い作品にたった1枚だけでも関われた藤圭子は、あたしは幸せだと思う。

どの曲もあっちこっち自分勝手な方向を向いてて、
それでいてどれもよく作り込まれてて、濃密な世界観を持ってて、
もう "演歌" なんてコンセプトはハナっから眼中にないし、
その上で最後に「涙の越前海岸」なんていう
笑っちゃうぐらいのド演歌のパロディーを、すでにこの1974年の時点でやっている。

この曲をラストに持ってきた意味をちゃんと受け止めなきゃだめだ。

ところがその後 "演歌界" は、ここでパロディーとして提示されてたスタイルを大真面目に追求しだすんだから、呆れて物が言えねぇたぁこのことだ。

圭子のその後のアルバムにしたって、
この「ひとりあるき」で到達した音楽的、詩的な創造性が
再び発揮されることはなかった。
圭子がそのノドでいっしょけんめいカバーしなけりゃならない、
あたしに言わせればハシにも棒にもかからん曲ばっかり
次から次へとあてがってきやがったんだ。