藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

『新宿の女』 ~箱入り娘も巣立ちます~

 どこか一箇所を突っつけば満天の星が一気に頭の上に落ちてきそうな夜空の下、地平線を彼方に見て白いギターを抱え、手にはロザリオをかけて、若い娘が一人でその乳青色の微光を浴びて佇んでいます。冬といっても、霧氷が木の枝にからみつくような、どこか湿り気を帯びた滑らかさがあります。

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 これから孤独な巡礼の旅に赴くといった風情ですが、一歩引いて見てみるとそれは入念に作りこまれた舞台装置であって、少女は実は寂しくも寒くもなく、足下のオーケストラボックスには、この子一人を一心に見つめる手練の楽団の面々が控えていたのです。

 藤圭子のファーストアルバム『新宿の女』で主に使われている楽器と言えば、

ソプラノサックス
フルート
ハーモニカ
クリーンなトーンの電気ギター
流麗なストリングス
バンドネオンのような音を出す何物か
バイブラフォン
トランペット


 といったところです。

 これを眺めて想像できるのはクールでドリーミーなサウンド以外にありませんが、実際に『新宿の女』はそういう作品であり、圭子の体に降り注いでいた柔らかい光は、ソプラノサックスやフルートを特徴とする夢見るような音の衣でありました。

 現場に集められた音の職人たちは、日々の身過ぎ世過ぎの中でかなぐり捨ててきた "優しい心" がどういうわけか目一杯まで呼び起こされて、手が楽器の声を確かめるかのように丁寧に音を紡いでゆきます。その結果、箱根の寄木細工のように思い詰めた、艶(なま)めかしい音がレコードに刻み込まれました。そこに "怨歌" などという乱暴で暑苦しい言葉が紛れ込む隙間がどこにありましょう*1

 薄明の一瞬の滑らかさを捉えたようなそのサウンドには、どこにも「カド」というものがありません。一切のトゲトゲしさやざらついた感じを嫌い、当たりのキツさや、ママこのセーターお首がチクチクしていやあみたいな刺激を排除して、何か極上の織物にくるまれて転がされるような、天使がぶら下げたハンモックに揺られるような、少女趣味な肌触りと言ってもいい、森茉莉の『甘い蜜の部屋』のモイラみたいにデレデレに甘やかされた世界が繰り広げられます。

 同時に『新宿の女』は、他のどの藤圭子のアルバムと比べてもサウンドに普遍性があって、音にも演奏にも瑞々しさが感じられる、経年劣化が極端に少ない作品でもあります。

 ときには時代の徒花のように言われたりもする藤圭子ですが、意外にもこのアルバムのサウンドは、この時代特有のエグみのようなものを吸い取っていません。抽象性が高いためか、古びるということがないのです。

<アルバム『新宿の女』から>

 圭子を柔らかく包み込む慈愛の光を感じてください。
 この愛情は伝染します。これを聴いた日から私もこの子を愛するようになりました。

 

 しかしこの『新宿の女』というレコードには、たぶん制作者ですら気づいてないだろうと思えるほど、濃度が高い技量が惜しげもなく注ぎ込まれています。このアルバムは、長年音楽を趣味としてきた擦れっ枯らしに寄ってたかって解析され、語り尽くされたときに、ようやく死に場所が見つかるような恐るべき傑作であります。それが「藤圭子のデビューアルバム」という一言で捨て置かれていることに我慢がなりません。そもそも藤圭子のファンだけに聴かれて終わるような作品ではないのです。本来であれば、わたしのような者が『新宿の女』について語ること自体が間違っている。もっと広い世界で、広い観点からイジられなければウソです。わたしがここで言ってるようなことはただの「見出し」にすぎません。ちゃんとした "本文" の部分を、眼力のある人たちに作ってもらいたいというのがわたしの願いです。

 

★新宿の女
「歌い込むほどヘタになる」っていうのはありますね。その後圭子はこの歌をどんどん駄目にしていった気がします。それぐらいこの初録音は驚愕の名唱で、どの部分をハサミで切り取っても、これ以上完璧な発声とフレージングはできないでしょう。藤圭子が17歳の阿部純子の才能のオツリで20年間食ってたっていう話の根拠はこのあたりにあるのです。

★星の流れに

 1番の後の間奏で聴かれる愛らしいストリングスのピチカートが、アルバムのサウンドカラーに大きく影響しています。この拍子抜けするほどの可憐な音作りはどうでしょう。

カスバの女

 なんの芝居っけもないこの少女の "カスバ" が一番真実味があるのはなぜか。それは、細かい発声とフレージングと、それから一語一語の発音に得も言われぬ魅力があるから。このリアリティは、そういうディテールの積み重ねでできている。細かく切り刻んでも、その刻んだカケラを土の中から掘り出しただけで、ああこれは名品だったんだっていう考証が成り立つのが、この時代の藤圭子。たとえば名唱と言われてるちあきなおみのカスバはどうかというと、あれは完全に歌の主人公を演じてるわけね。まず全体を俯瞰してから中に入って主人公に迫ろうっていうアプローチだから、細部を見ていくと、純粋な音としての魅力はそんなに感じられない*2。圭子のほうは、演技とか全体的な雰囲気なんてことはハナから考えてなくて、ひたすらディテール勝負で、いわば細部をつなげていく絵巻物か屏風絵みたいな感じで歌っている。そこに気がつくと、藤圭子を味わうコツが一つ掴める。全体をボーっと聴いてるよりも、虫眼鏡で細かく見ていったほうが面白いわけだ。ただし、それができるのは本当に初期の数年間だけで、わびしい話ではある。

★逢わずに愛して

 カバー曲ではありますけど、藤圭子の歌の中で、もしかしたらわたしはこれが一番好きかもしれません。いつ聴いてもシアワセになります。そしてこの歌によって、わたしは藤圭子がいったいどういう性質の歌手であったのか、最後までわかった気がします。

 右チャンネルで鳴ってるこの楽器はなんですか。アコーデオンですか。世にも美しいこのイントロでは、その楽器の音が山の清流のように底を流れ、その上をトランペットのメロディーが風になって吹きわたる仕掛けになっている。これを聴くと、わたしは左の頬に本当に風を受けるように感じる。加えてこの微弱電波のようなパルスを送り続ける柔かいリズムギターはなんだ。いったいどうしたらここまで冴えわたった、しかし夢のように甘美なアレンジができるのか。いったい「演歌の星」と名付けたスタッフの頭にあった「演歌」とはなんだったのか。「演歌の星」のファーストアルバムに、なぜここまで青春の甘い郷愁を揺さぶるサウンドが詰め込まれているのか。そして藤圭子も、自分をどんな歌手として印象付けようかとか、どんな雰囲気の歌に仕上げようかとか、どこをどんなふうに歌い上げようかとか、そういう邪念にはいっさい侵されずに、その場に持ってきた自分の体と声だけを丸ごとマイクに吹き込むことに集中している。そこに記録されているのは、藤圭子という名前すらない、生身の肉体が発する生命力だけである。いったいこのアルバムのどこを探したら「怨み歌」が出てくるのか。「暗い情念」はどうした。そんなもん最初っからねえんだよ。

★夢は夜ひらく

「暗い」という言葉でしか表現されてこなかったこの曲が、 どれだけ優しくて甘い過保護なサウンドの曲であったか、もういっぺん味わってみてください。

★柳ヶ瀬ブルース

 オーロラのように怜悧なソプラノサックスが一気に空間を切り裂いたところを楚々としたフルートが柔らかくなだめて、そこにハーモニカが哀愁と望郷の味わいを流し込むという、まあわたしはこのイントロに美の極致を見ましたね。そして圭子の歌は、「ああ柳ヶ瀬の  夜に泣いている」の最後の「る」の発音が聴きどころです。この子は舌の筋肉が強いんです。実にすばらしい。

★花と蝶

 最初の間奏で、圭子の声と入れ替わりで滑り込んでくる ストリングスとフルートのユニゾンの美しさが涙腺を刺激します。

★長崎ブルース

 1曲目から聴き進めてきて、最後から2番目の「長崎ブルース」の切ないイントロが流れたときには、感極まって嗚咽も漏れようというものです。なんて美しいサウンドプロダクションでしょう。

 この一枚のアルバムの中で、藤圭子は産まれて生きて、
そして死んでいます。
藤圭子のすべて」というサブタイトルは伊達ではありません。

 なぜ死んでるのかというと、『新宿の女』の藤圭子には再現性がないからです。
 それはこのアルバムを聴くときだけに感じる不思議な感覚で、その瞬間の肉体の状態だけが焼き付けられたような印象があります。
 なにか、録音したまま発売日を迎えることもなく夭逝した、伝説の歌手の記録を眺めるような雰囲気があるのです。
 この藤圭子をわたしが「圭子1号」として峻別するのはそのためです。
 この融解物質には、藤圭子という名前すら必要ではない。

 

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 ここには、お人形のような面差しで枯れた声を絞り出す藤圭子の特徴を、ことさらアピールしようとする姿勢は見られません。それよりも、声と演奏を一つのサウンドとして溶け合わせること、つまり一定の体温のある音の中に圭子をくるみ込んでしまおうという意思が感じられるとともに、ようやく人気に火が着いた新人歌手の純ちゃんが可愛くてしかたないようすが伝わってきます。
 そしてその新人歌手は、バンドマンのガラにもない寵愛を一身に受けてのびのびと歌っています。

 聴衆はその多幸感に陶然となるのです。

 これらすべてを手の上で演出していたのが、阿部純子を見い出し、育て、藤圭子として売り出した石坂まさをであったことは言うまでもありません。秘蔵っ子に対する石坂の曇りのない慈しみがあたしを泣かせます。*3

 かくして『新宿の女』は、世界のポピュラー音楽の歴史の途上で一瞬煌めいた星座、奇跡的な傑作と相成りました。

 この時期の藤圭子は歌手としては実力のピークにありました。とにかく楽器としての性能が抜群によくて、歌謡曲の精髄・精華とも言えるバックの演奏と融け合いつつ、それに呑み込まれずに完全に拮抗しています。発声からフレージング、曲の把握力に至るまで、非の打ち所がありません。

 それでも圭子一人の力では音楽作品はできないので、もう一歩突き抜けるには、他のいろんな要素がいいタイミングで揃わなければなりません。それが本当に実現したところが、このアルバムの奇跡なわけです。奇跡なんて言葉を安売りしたくはありませんが、これについてだけは言わせていただきましょう。

 人はこの "湿潤性の哀愁" とも言える味わいを、『新宿の女』を聴くことで初めて知って、感知できるようになるのです。味蕾が開発されるのですね。

 藤圭子のような類まれな資質を持った歌手といえども、なかなか世界の舞台で理解される作品は生み出せません。でも少なくとも『新宿の女』は、世界のポップス・ベストアルバム100枚に堂々と入れてもいい出来栄えだと思います。

 

 さて『新宿の女』のデレデレ状態から4か月を経て、セカンドアルバム『女のブルース』を作る段になると、そこにはもう石坂の庇護を受けなくても、傷つかないように柔らかい衣で包まなくても、一人前の歌手として立派に世の中と渡り合えるタフな藤圭子がいました。

 ただ、圭子もタフでしたが、転がり出した人気はコントロールの限界を超えて、手に負えないものになりつつありました。

 そんな世間の熱狂を目にして、石坂はここで一回藤圭子を殺しておかなければならないと思ったそうです。
愛憎相半ばするその感情は、あたしにはよくわかります。

 そして "こんな女" を生かすも殺すも勝手にしてくれと、聴衆に下駄を預けるつもりで石坂が作詞・作曲したのが、『女のブルース』にも収録されているシングル「命預けます」でした。
(この強烈な赤は圭子の血の色に他なりません)

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 アルバム『女のブルース』では、石坂の命(めい)を受けたかのように、楽器の群れが突然純ちゃんに牙を剥きます。天上から降り注いでいたドリーミーなソプラノサックスに代わって、下卑たテナーサックスが下からぐいぐい突き上げてきて、ああそんなにしたら壊れちゃうのかと思いきや、いくら攻めたててもタワシでこすっても、ぶつかり稽古で肉体を鎧のように改造していく力士のように、圭子はそれに倍するエネルギーと、魂のこもった歌唱で跳ね返してくるのでした。

「この子はただもんじゃない」と直感していた関係者も、その予想すら大きく超えて何処(いずこ)とも知れぬ方向に走り出した純ちゃんには、内心困惑していたはずです。「演歌の星」と銘打ってはみたものの、その才能をどうやって活かしていけばいいのか、扱いに困るほどのポテンシャルが圭子にはありました。結果的にはそのポテンシャルの向けどころが十分に開拓されぬまま、「演歌」の呪縛の中で、わずか10年で藤圭子は歌謡界を去ることになります。

(そんですぐに戻ってきちゃうお茶目なけーこがわたしはスキです)

 

 

 

この人テキトーなこと言ってるからね

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※テキトーって言うけどな、今や無視されて、忘れられて、打ち捨てられてるアンタなのに、「怨歌」とか、「ドス」とか、「暗い」とか、そういう言葉の切れっぱしだけは何故か生き残ってて、アンタに関する記憶が全部それに収斂されちゃってんのが我慢ならないから、いいから黙ってもう一回「新宿の女」を、その音を純粋に聴いて、いかにアンタが箱入り娘で、デレデレに甘やかされてて、いかに濃密でシアワセな作品だったか気づいてくれって、おれはこれでも魂込めて世間に訴えてんのよ。少しはアンタの歌に応えようと思って。

 

 

藤圭子もたまにはこういうふうに紹介してほしい

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*1:このレコードを聴いて「怨」という字を思い浮かべることができる人の感性を、わたしは一生理解できないでしょう。

*2:わたしはちあきなおみを否定的な感じでとり上げたりするが、実際にはよく聴いているので、好きな歌手の範疇に入るんだと思う。

*3:とまあ、ここでは言っておきましょう。