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藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

言葉で撫でるやりかた

歌と共に生きる自分の人生を見出した藤圭子は歌い続けた
ある時は一夜に五十数曲を歌った
喉も枯れ、身も倒れようとも
その歌声はしかし、いつしか人の胸に食い入っていった
それは声と魂が一つになった歌だったから
そして花は美しく開いていった
(「黒い花びら」導入部での司会者の語り)

 

 

今宵も圭子の声の面(おもて)を撫でさすって
その色と形と弾力を手のひらで確かめているところです

いいですよ圭子の歌は

でもこういうむき出しの生々しい歌声は
今の人の耳には美しいものとして響かないのでしょうか
あたくしごときが何もめんどくさいことを言わなくても
歌が全部引き受けてくれると思ってたんですが

あるいはあたしがあんまり余計なことを言い過ぎるからでしょうか

いいですよ圭子の歌は
素手で人の心臓を引っつかむような無遠慮さがありますが
その手はあくまでも滑らかでアッタカイのです



歌いつがれて25年 藤圭子 演歌をうたう - YouTube

 

岡本太郎が言っていた「芸術の三原則」、すなわち芸術はきれいであってはいけない、うまくあってはいけない、心地よくあってはいけないというのは、素朴すぎるとはいえ、ある種の表現者の魅力の謎を解く鍵にはなります

人間の、本当に燃えている生命が、物として、対象になって目の前にあらわれてくれば、それは決して単にほほ笑ましいものではない。心地よく、いい感じであるはずはない。むしろ、いやな感じ。いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。そうでなくてはならない*1

美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある

美というものについて岡本太郎はこう言ってますが
デビュー間もないころの圭子はまさにそんな感じでした
不調法なんだけど精神性の高さだけはわけもわからず伝わってくる
ちょっと珍しいタイプの歌い手でありました

いいですよ圭子は

あたくしのほうはといえば

圭子を耳で聴くことは口に入れることと同じ
圭子を目で視ることは手で触れることと同じ
圭子を口ずさむことは圭子を取り込むことと同じ

みたいなスタンスでしみじみとやっていくつもりです






はいはい。

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*1:あたしが圭子を見てて「ムカつく」っていう、その秘密はこんなところにあるのかもしれない