藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

京都のおんな

京都といえば、藤圭子にはそのものずばりの「京都ブルース」があるけど、これだけ京都の町にそぐわない曲もないよね。古都の情緒もなければ、京都らしい都会的な洗練もない、ただの愚作でしょ。

こういう、ある意味その後の浅薄な "演歌" の先鞭になったような駄曲は、
石川さゆりとか坂本冬美なんかが歌ったほうが生きたはずなんだ。
当時石川がアイドル歌手じゃなくて、坂本が年端もいかない子供じゃなかったらの話だけど。

圭子は、清々しいくらい気持ちが入ってない。

残念だけど、藤圭子はこのときすでに "取り替えのきく歌手" になっちゃってた。
圭子にしてみたら「なんであたしにこんなつまんない歌をあてがうのさ」ってことだし、歌の身になってみれば、「べつに藤圭子じゃなくても、いやむしろ他の歌手のほうがマシだった」って感じだよね。
なんなんだろうね、この荒んだ後味は。

でも同じ年に『圭子のにっぽんひとりあるき』の一曲として録音した「古都」はとてもいいです。プロデュースさえしっかりしていれば、まだまだ魅力的なパフォーマンスができたってことでしょう。

でも、「古都」はいい曲だし圭子もきれいに可愛く歌ってるけど、現実の京都にマッチしてるかっていうと、意外にそうでもない。じゃあ京都の町を歩いててしっくりくる藤圭子はあるのかって言ったら、ありますね。

言ってみれば、アルバム『女のブルース』全部。
アルバム『さいはての女』の中のいくつか。
初期の歌は、その中でも「女のブルース」は別格だけど、
 "都会の懐かしさ" みたいなものがよく表現されてるでしょ。
そういう、新宿をベースにした情緒がさ、不思議に京都の町にも合うんだ。何か目に見えない普遍性を獲得してんだろうね。

京都では、もちろん古い町並みと四条通の賑わいとでは表面的な雰囲気はまるで違うけど、どっちも歴史のある "都会" の姿でしょ。そういう本質にきっと藤圭子が共鳴してるんだ。

初期の藤圭子の歌では、夜の都会のまぶしい輝きと、その隣に流れてるドブ川の淀みがいっしょくたに表現されてる。それがさ、強い粘りを持った美しさになってるのね。その清濁併せ呑む姿が、京都っていう町の地層の厚さに重なるんだってあたしは思ってんの。