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藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

困った伝説

藤圭子には「オリジナル歌手殺し」っていう困った異名というか伝説があって、ようするに圭子が人の曲をカバーすると、上手すぎてどれも元歌を超えちゃうってことなんだけど。

ほんとにそう思ってる?*1

たしかにデビューしてまもないころは、向かうところ敵なしで、「人の歌を歌うことがすなわち "藤圭子"」みたいな感じだった。デビューアルバムは実質的にはカバーアルバムだし、ライブアルバムの『歌いつがれて25年/藤圭子 演歌を歌う』もそれは同じで、カバーこそが藤圭子の魅力と実力の証拠になってた。

そしてもう一つ、1971年に出したカバーアルバム『圭子の人生劇場』があるけど、これも藤圭子らしい硬質な情緒と筋のいい声でみっしりと塗り固められてて、それはそれはすんばらしい出来でした。歌の掘り込みかたが違う。漆塗りみたいな密度があった。

圭子19歳、このときがピークだったかな。

そのあとのカバー曲は実際どうだった? 「とりあえず藤圭子が歌ってみました」っていう程度の安っぽいカバーがゴロゴロあると思うんだけど。けっこう唖然とするほどつまんない歌唱もあるよね。

なにか、それが何かはわかんないけど、「藤圭子」の核になっていた大事なものが、どこかの時点で憑き物が落ちたみたいに消え去ってるんだ。達者には歌ってるかもしれない。でも達者な歌なんてどうでもいいんだよ。アメンボみたいに水面をすいすい泳いでるのを眺めるために藤圭子を聴くわけじゃないよね。自分がカラオケで歌える歌を探して藤圭子を聴くわけでもないよね。

ティーネージャーだったときの圭子は違うよ。水面から入って、深い水の底まで潜っていって、そのまた下の汚泥までごっそりこそげ取ってく感じね。京都の話にも重なるけど、清濁併せ呑むオトナな表現ができてたのよ。まだ子供なのに。なんでそんなことができたのかはわかんないけど、でもいろんなジャンルの音楽を眺めてみれば、そういうタイプの才能もあるんだってことはなんとなくわかる。

それから、『圭子の人生劇場』みたいな完成度の高い表現とは別に、圭子が他人の歌を歌う意味ってものをハッキリと示しているのが、あの「霧の摩周湖」じゃないかな。
オリジナルと比べてどうとかっていう次元じゃない。
普通なら商品として発売するのをためらうようなブッ飛んだ歌唱なんだけど、"藤圭子" という存在がすべてをねじ伏せてる。
あれはセックス・ピストルズなんかと同レベルの破壊力だもんね。
あれこそが藤圭子

 

*1:だいたい、他の歌手の人たちに対してずいぶん失礼な話じゃないのかい