藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

「已んぬる哉」の用例

女二十七にして立つと言うが(言わんか)、その誕生日を明日に控えても、相変わらず中身が小児のままなのは隠しようもない。
しかしその小児である私(わたくし)から見ても、好事家の間での最近の藤圭子の扱われ方は、自分が姉(アネ)さんになったような気分になる総白痴化状態である。

姉と弟の心理的距離は、兄と妹の隔たりよりも数段大きいであろう。問題は、藤圭子という存在が昔も今も男の目線でしか語られてこなかったことにある。男だからどうだ女だからどうしたという議論は愚劣で無意味なことではあるが、それにしてもごくわかりやすい、絵に描いたように男性的な空間の中で、藤圭子がただの愛玩動物と化しているのを眺めるのは、少なくとも私にとっては歯痒いことである。

藤圭子という素材には、もう少し違う使い道というものがあるのではなかろうか。もっと何かを考えてみたいと思わせる、頭が疼くような存在ではなかったのか。いつどの時点から藤圭子というのは、眺めて愛でて "ほっこり" するような対象になったのだろうか。それは、グラビアアイドルの写真集を眺めてほっこり(もっこり)するのと何が違うのだろうか。そのような欲望の対象が藤圭子である必要が果たしてあるのであろうか。

さらに言えば、藤圭子というのはそんなに可愛いのか。仮に可愛いのだとしても、君が圭子に惚れたのは可愛いからなのか。最初の瞬間に遡ってもそうなのか。君にとって藤圭子というのは "癒しをくれる" 存在だったのか。君が圭子に求めていたのはそもそもそういうものだったのか。そして大の男がそんなに癒してもらわないと生きて行けないのか。行けないとしても、...うむ、まあよい。

改めて考えれば、雑誌から切り抜いた写真を教室でこっそり回し眺めてウットリするのが女性的であり、頭でっかちな議論に持ち込もうとするのが男性的であるとするならば、藤圭子の取り巻きの男性陣全員で仲良く女性化が進行しているというのが実態であるのかも知れぬ。ガラス細工のように壊れやすく傷つきやすい、ウブで無菌培養の男衆が幾重にも藤圭子を取り囲んでおる。やんぬるかな。