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藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

藤圭子サン

藤圭子という歌手の名前をどう表記するか。
わたしは2年前にブログで藤圭子について書き始めて以来、意図的に何らかのニュアンスを持たせる場合を除いて、"藤圭子" に「さん」なんかつけたことはありません。

ニュートラルなスタンスで話をしているときは「藤圭子」。特に親愛の情をこめるとき、心理的な距離が近くなってるときには「圭子」もしくは「けーこ」あるいは「ふじけーこ」。本名の "純子" の場合は「純子さん」。本名の場合でも、説明文の中でフルネームで取り上げるときは「阿部純子」。
(例:「藤圭子は17歳の阿部純子の才能のオツリでその後20年間食っていた」)

こういう使い分けは、わたしは日本人なら誰でもわかるものだと思ってた。でも違うみたいね。

あるアンケートによれば、たとえばブログなんかで著名人の名前に必ず「さん」を付ける人が半分近くいるらしい。
最近では "福沢諭吉さん" も "夏目漱石さん" も "坂本龍馬さん" もオッケーみたいだし。
「この著者さんは」とか、「個性的な女優さんになるのが目標です」みたいなパターンもあるわね。

でも、歴史上の人物は論外としても、著名人の名前に「さん」を付けることは、場合によってはかえって失礼になるケースもあるんだってことは、わかったうえで付けたほうがいいと思います。
人間さぁ、公的に呼び捨てにされたら一人前っていう側面もあるもんね。

呼び捨ての問題じゃなくて、「さん」っていう言葉そのものの話になるけど、山中伸弥ノーベル賞をとったときに、NHKのニュース番組が一時期かたくなに「山中伸弥さん」って言ってて、それってすっごく失礼だなって思ったの。どうしてそこで「さん」なんだろう、どうしてちゃんと「山中伸弥教授」って言わないんだろうって思って。*1
民放のニュースでは、わたしが気づいた限りではみんな「山中伸弥教授」って言ってた。

山中伸弥さん」って言うことでさ、その人の地位も業績も名誉もかるーくすっ飛ばして、自分の都合で自分が親しみやすいレベルに相手を引きずり下ろしてるって、そういう印象をわたしは受けた。
これは日本人がノーベル賞を受賞すると、すぐに趣味はなんだとか、奥さんにアタマが上がらないとか、わたしら一般人のレベルに引っ張ってこようとする報道姿勢に通じてる。

偉い人はね、やっぱり偉い人としてちゃんと扱うべきなんだよ。

話は戻りますけど、わたしは藤圭子をいじくり回すのが好きですし、面白い人なのでからかったりクサしたりもしますけど、歌手=藤圭子に対する敬意の深さでは誰にも負けない自信があります。深いからこそ平気で批判もできちゃうのですが、藤圭子はそれだけ大きくて強い存在なのです。そんな大事な人の輝かしい芸名に、わたしは畏れ多くて 「さん」なんていう下世話で不躾な接尾辞をなんにも考えずに付けることはできません。
藤圭子と面識もないわたしが、です。

自分の中の藤圭子の大きさと、「さん」っていう言葉の無造作な軽さが決定的に吊り合わないの。

一方で「さん」という言葉は、相手との間に常に一定の間隔を置くというサインであり、心の距離感を表す記号でもあります。わたしの心の中では、藤圭子を「圭子さん」などという言葉で解決することはできません。

「さん」ってむずかしいのよ。敬意を表すには射程距離が短すぎて、「山中伸弥さん」みたいにかえって相手を自分の立ち位置に引きずり下ろしてしまうことがある。舞台の上で華やかなスポットライトを浴びている人を、いきなり自分の隣の席に引っぱってくるみたいなずうずうしさがあるんだ。

「さん」はある意味、ケジメのない言葉。それでいて、一定の距離以上には踏み込めなくなる効果もあるから、切実な心情を反映させた文章にもなじまない。だから一度「さん」を使ってしまうと、その対象について自分のポテンシャルいっぱいまで考えることができなくなる。でもそういうむずかしい言葉だっていうことを自覚しないで使う人が多すぎるわね。

「さん」って丁寧語の一種だよね。これが乱用されるのは、"丁寧語" っていうものの性質とも関係していると思います。ふつう辞書なんかを見ても、丁寧語は敬語の一種で、相手に対する敬意を表す言葉だって最初に書いてある。でもその次に、「まった気持ちで言葉遣いを丁寧にしたりするときに使う」とかって書いてあったりもする。こっちのほうが本来の "丁寧語" の機能じゃないかな。

つまり丁寧語って、実は相手に対する敬意とはあんまり関係ないんだ。あくまでも話し手の側のムードとか心持ちとか、姿勢を示す言葉なのね。ようするに「今わたしは丁寧モードで話してますよ」っていうサインでしかないわけ。「さん」を乱用する人って、必ずしも人に対する敬意が深いわけじゃない。話し手である自分が常に "丁寧モード" であることをアピールしたい気持ちが強いだけ。「礼儀」が最優先で、礼儀のない敬意がありうるなんて想像もできないような人。

藤圭子は、世間一般の礼儀なんかより自分の中の敬意を大事にした人だったと思うんだけどな。

なんでこんなことにこだわるかっていうと、こういうふうに他の言語から見たらどうでもいいようなことをぐちゅぐちゅ使い分けるのが日本語の特性だから。
(そのくせ肝心なところがテキトーで大雑把で、だからこそ柔軟で愛らしい言語でもあるんだけど。)
なんでも「さん」って付けとけば間違いないだろうっていうような省エネ思考は、そもそも日本語の発想じゃないんだ。せっかく日本語を母語として育ったんだからさ。

 

*1:2014年の物理学賞でもまったく同じだった。「名城大学、教授の、赤﨑 勇さん」って言うのよ。「名城大学の赤﨑 勇教授」じゃどうしていけないの。ぜんぜん意味合いが違ってくるよね。