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藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

テレビに藤圭子が出てくるとなんで気まずかったんだろう

藤圭子が歌謡界に這い出てきた当時の実力派の若手歌手、たとえば弘田三枝子伊東ゆかり黛ジュンなんかはいずれも米軍キャンプ上がりで、もちろんいろいろ苦労はあっただろうが、純粋にポピュラーミュージックっていう枠組みの中では、この人たちはエリート育ちなんだ。だって周りの大人は腕っこきのミュージシャンばっかりで、その中で叩かれて鍛えられるんだから、それ以上いい環境はない。

藤圭子にそんな環境はない。周囲に音楽的な基準になるような存在もいない。だから圭子は、行く先々で地面から生えている民草(たみぐさ)の想念を自分で吸い上げて成長するしかなかった。それで知らず知らずのうちに、ある種の "怪物" になってたんだな。

その蓄積された "民藝" 的な想念を昇華できる才能があったから、藤圭子の人気はタガが外れたみたいに暴発した。でも民衆の静かな怨念っていうのは、当の民衆にとって「見たくないもの」でもある。人気絶頂のころから、藤圭子に本能的に嫌悪感を示す人間はいた。それは圭子が、見せてはいけないものを平気で見せちゃう存在だったからだろう。

わたしら民衆は自分の素性や出自を隠しておきたいっていう気持ちをどこかに持っている。その隠しておきたいもの、隠しておくことが暗黙の了解になっているものを、空気も読まずに無頓着に暴露しちゃったのが藤圭子。それが「地雷」になった。圭子は地雷を踏んでしまった。そのせいで圭子は、大っぴらに触れるのが憚られる存在になっていく。

どこかいつも居場所がないような、疎外されてるようなあの雰囲気の正体は、そんなところにある。「共感できなくもないけど、見えないところでやってよね」みたいな視線を浴びてる感じ。これはもう、"藤圭子" っていう構造上そうなるしかなかった。だから70年代後半の藤圭子は、藤圭子であることを薄めて無害化することで、ようやくテレビに出ることを許されていたわけだ*1。元々細かった圭子がますます痩せていったのも、一つにはそんなプレッシャーが影響していたんじゃなかろうか。


家庭の主婦が当時どういうニュアンスで「藤圭子」っていう名前を口にしていたか、思い出してみるといろいろわかるんじゃないかい。

藤圭子って、そんなに堂々と「好きです」とか「ファンです」とか言えるような存在だったか? 自分は藤圭子が好きだって表明することは、単に一人の歌手のファンであるというにとどまらず、何か一つの "色" をもって見られるのを覚悟することではなかったのか。いま「昔からのファンです」とか言ってるのは、そういうことに無自覚だった人たちなんだろう。藤圭子が好きで、レコードなんかを買ってくるのは、相当恥ずかしい行為だったはずなんである

なぜ恥ずかしいのか。見せてはいけないものを平気で見せちゃうということは、つまりテレビの中でも藤圭子は「人間」が丸出しだったということだ。それはすなわち、「女」が丸出しということでもある。たとえばダンナが奥さんの前で、伊東ゆかり小川知子が好きだって言ってもぜんぜん問題なかったろう。いしだあゆみのファンだって言っても、なんなら岡崎友紀が大好きだって言っても、笑って済まされる話だろう。しかし藤圭子が好きだってバレたらどうなってただろうか。表立ってケンカになるというよりも、なんだかイヤ~な不信感が夫婦間に漂いはしなかったか。だから「仕事と藤圭子は家庭に持ち込むな」と言うのだ。

そもそも、"藤圭子" っていう名前につきまとっていたそういう隠微なヒダに無頓着でもなければ、「偉大な歌手」なんていうそらっとぼけた形容詞を臆面もなく付けられるわけがない。「藤圭子」とは、そんなに平板で当たり障りのない記憶なんだろうか。いまおっさんやおばさんの「藤圭子ファン」もしょせん当時は子供だから、大人どうしで交わされていた視線の応酬や、お父さんの後ろめたさなんかには気付きようもなかったんだろう

この際ついでに言っちゃおう。この「恥ずかしさ」が肌でわかるかわからないかで、まずはあなたの年齢・世代がわかる。そしてあなたがどれだけのリアリティーで藤圭子を記憶しているかも明らかになる。藤圭子の "こそばゆさ" がわかんなくて、単純に「好きだ」とか「すばらしい歌手だった」としか言えないあなたは、しょせん当時はガキだったのだ。

どっちにしても、今じゃもう藤圭子知ってるか知らないか、二つに一つだから、そういうキワドイ感覚も遠からず忘れ去られるんだろうが。いや、もう忘れられてるようだ。でもな、もういっぺん言っておくが、「藤圭子」というのはこそばゆくて後ろめたい存在だったのだ。そういうとこがよかったんじゃないの。もう少し掘り下げて思い出して、味わってみたらどうでしょう。

 

 


※圭子を讃えたいのなら、
せめて「芸格が高い」ぐらいのことは言ってほしいよね。

わたくしがこうしてあれやこれや書き散らしてるのも
いってみれば圭子の芸格の高さを示さんがためですが
効果が逆方向であると気づいたときにはもう遅い。

 

 

 

 

「ロン。」

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*1:別の言い方をすれば、「夜のヒットスタジオ」なんかで歌ってるあの人は、あくまでも "純子さん" であって、"藤圭子" ではない。純子さんは相変わらず聡明で自覚的でお茶目な人であったわけだけど、どう取りつくろっても "藤圭子" ではない。"藤圭子" という表現ができる人ではすでになかった。言ってみれば歌が上手な普通の人でしかなかったわけで、それは本人が一番よくわかってたのです。