藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

あたいの圭子はなぜウザい

圭子をベランダに蹴り飛ばしてから、
ちゃぶ台に戻って吸いさしの「いこい」を咥え直した。
一体この女はなんなんだろう。

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 前に引用したことがある岡本太郎の言葉を思い出した。

「人間の、本当に燃えている生命が、物として、対象になって目の前にあらわれてくれば、それは決して単にほほ笑ましいものではない。心地よく、いい感じであるはずはない。むしろ、いやな感じ。いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。そうでなくてはならない」

「美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある」

岡本太郎 『自分の中に毒を持て』)


圭子は "等間隔" なんだと思った。
なにが。外れ方が。

圭子の声は「美しさ」の基準から外れているが、その外れ方と、
日常の挙措の外れ方がきれいにおんなじなんだ。

圭子は自分の歌を生きている。
歌が描く世界を生きてるのではなく、歌うという行為そのものを生きている。
声が外れている寸法と等間隔で日常の所作がトンチンカンなのだ。
こんなに "正確な" 歌い手は見たことがない。

世間ではこういうタイプの人間を「芸術家」と言う。
おれは前から「ウソがつけない女」と言っている。

日常がそのまま圭子の "音色" なんだ。
圭子の言動にイラつくことも、その音色を味わう悦びなわけである。

その一方で、声は規格外なんだが、音程は外さないし、フレージングは常に的確である。その歌手としての芯の確かさは、ある一線を超えたら人にも自分にも絶対にウソを許さない、人間・藤圭子の姿そのままではないか。

藤圭子にもし「偉大」な部分があると言うのなら、それは普通なら歌にならないあの声を自由に制御できたことにつきるだろう。藤圭子は、誰も弾くことができなかった楽器を操って、聞いたこともない音色を教えてくれた。それは、圭子に出逢わなかったら一生知ることのなかった感覚だ。


―― なんだか可哀想になって、擦りむけた圭子の膝小僧にバンソーコーを貼ってやった。腰にもトクホンを貼ってやった。圭子はタダでは起きない女だから、そのうち小癪なしっぺ返しの一つもしてくるんだろう。

そういえば圭子は
「あれっ、と立ち止まらせる力」沢木耕太郎 『流星ひとつ』)と言っていた。
自分でわかってやってやがる

 

 

 

いっしょに逃げよう

はしだのりひことクライマックス  「花嫁」

 

なんだろ、あたしこれたまんなく好きだな。

圭子が家事の真似事をしてたときにジャストミートで流行ってた曲だから引っ張ってきたんだけど、アレンジ、ホーンセクションの響き、おねえさんの声質、はしだのりひこのコーラス、猪俣猛の突っ込むドラム、胸を締めつけるメロディー、乙女な歌詞、どれをとっても味付けが絶妙で、「旨い辛口がないとお嘆きの貴兄に」自信をもって推奨できる逸品だと思いますね。

 


はしだのりひことクライマックス 花嫁(ライヴ) - YouTube


「花嫁」 はしだのりひことクライマックス (昭和46年) - YouTube

お、アイ・ジョージか。懐かしいぞ。

なんか三波春夫がタキシード着てねえか?

東京ロマンチカと談笑してるぜ!

水原弘も元気だったんだな。そして端っこに新人五木ひろし...

まだ歌謡曲が生きてた時代だったのがよくわかる。

そんでカメラがぐっと紅組に寄ってくれると藤圭子が座ってるはずなんだが。

ていうより圭子の出番の映像も出してくださいよ。

でも藤沢ミエさん可愛いな。

 

 

 

昭和46年で忘れてはいけない曲をもうひとつ


井上順 昨日・今日・明日 - YouTube

 

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