藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

懲りない国民

日本はいま昭和5年まで来ていると私はふんでいる。そこから満州事変にまで進むかどうか、そして最終的に昭和20年8月15日の一億総懺悔に至るかどうか、国民の毎日の行動と選択に国家の浮沈がかかってる状態と言ってもいい。でも私は、日本人は何度やってもやられても懲りないと思っている。言葉の表層をいじくって現実逃避するのが国民性だからだ*1。この国では、本当に大事なことについて、言葉が何の意味もチカラも持っていない。持たされていない。ありていに言えば、日本語の用法そのものに最初からウソが組み込まれているんだ。

その一方で「言霊信仰」ってやつがある。これはもちろん言葉に実質的な力がないことの裏返しであって、誰かが思いつきで言い出した、内実があいまいで空虚な "標語" が無定見な価値を持たされて、それにマジメな人たちが全力で心をこめて従う自分が言葉を作っていくんじゃなくって、作られた言葉によって自分を規定しようとするんだ。「テロには屈しない」とか「おもてなし」なんかもそう。「絆」っていう言葉を耳にしたら、それを前提にして自分にとっての絆ってなんだろう、自分も何かしなくちゃって考える。そしていま大流行中なのが「説明」だ。説明する側とされる側の力関係の中にあって、「説明」が実際には何を意味しているのか、考えずに使ってる人間が多すぎる。「丁寧に説明する」っていう言葉を好んで使い始めたのは野田首相だったと思うが、政治家や官僚が「説明」っていうカードを切るようになってから、日本の社会の欺瞞性が増幅した。なぜなら、「説明」が行われる状況で、説明される側が求めているのは "実害の除去(「それはやめて」)" なのに、「説明」とはつまり "方針の不転換と強要(「なんにも変わりませんよ」)" と同義だからだ。そこでは対話による解決の可能性が最初から排除されている

結局こういう言葉によって息の根を止められるのが我ら忠良なる懲りない国民。本来の言葉の力っていうのは、考える力、感じる力、「違う!」って言うチカラなわけだが、それを封じる強固な国民性は、70年や80年が経ったからってそうそう変わるもんじゃない。変わったんだと信じていたが、実は変わってなんかいなかったことが震災を契機によく見えるようになった。この国民あってのこの政権、国際連盟脱退の昭和8年はもうすぐだ。

そして「がんばろうニッポン」っていう無邪気な標語にいずれ日本人は殺される。ファシズムっていうのは国の体制ではなく、無邪気で、真面目で、素直で、誠実で、人に迷惑をかけまい、清い心をなくすまいという律儀な市民の真心の集積だからだ*2。せめて外国を巻き込むことだけはないようにしないといけないが、それももう実際は手遅れだ。

「時局」っていう言葉の無害化もすっかり完成したみたいだしな。いま「時局」で検索してみても、この言葉ひとつで地獄に叩き落とされた記憶を呼び起こす材料が出てこない。日本人はやっぱり日本人だ。でも日本人であることからは逃げられない。わたしには日本人の品性や心性が骨の髄まで沁みこんでいて、それが日々の言動の中で顔を出すからイヤなんだ。

 

 

 

では私から経緯を説明させていただきます

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*1:例の「粛々」の問題なんかもそうだな。普通の国なら、あんな低レベルなごまかしをやった時点で政権はソッコー終わりだろう。正気の沙汰とは思えない。

*2:そして善意と穏当な言葉だけで一つの楽園を作ってしまうと、どこかのブログのように<私や第三者への批判は受け付けません>などという世にも恐ろしい看板をおっ立てて、「心が汚れた者」、空気を乱す者を排除しにかかる。それがどれほど野蛮なことか、野蛮からは最も遠いところにいると信じている本人が気づくことはないだろう。それは野蛮などころか、清いものを守るための尊い行いだからだ。悪魔ではなく「善魔」とはよく言ったものだ。