藤圭子趣味

"本質的にハグレてる" ものを嗜好するゲテモノ喰ひだと己を規定する

パリの空気/対等ということ

わたしの目に映ったパリという街の視覚的な美しさは、もともと好きだったリスボンポルト、あるいはバルセロナの街の美しさを超えるものではなかった。

バルセロナは、ヨーロッパの美を集めて煮詰めた後の上澄み液を塗り込んだ感じ。香気が立ち昇る夢の都だな。リスボンは、その上澄み液を掬った後の澱を固めて砕いてバラ撒いた、香気はないけど美の精髄が目に見えない形で染み込んだ街かな。

それに比べてパリは、見た目の味わいが薄い。でも空気が違った。それは大気のことではなく、そこで生きてる人間が作り出してる風通しのよさみたいなもんなんだと思う。

わたしはリスボンでもバルセロナでも、いろんなところで座ったり立ったり歩いたりして、ああなんてキレイな街並なんだ、なんという歴史の深さなんだってウットリしていたが、思い返してみれば、パリで肌身に感じたような気楽さを味わうことはなかった。

パリは本当に楽な街だった。手足が思いっきり伸びる感じ。背筋がまっすぐ伸びる感じ。関節が柔らかく動く感じ。それは観光名所でも、地下鉄の中でも、オープンエアーの2階建てバスから街を見下ろしていても、カフェでただ通行人を眺めていても、気まぐれに商店をひやかしても、パン屋でパンを買っても、ビストロで一所懸命に料理の説明を聞いていても、人生を放棄したような人がうろついてるゴミだらけのピガール広場に立ってみても、まったくおんなじだった。

自分が人間として楽に呼吸ができるあの雰囲気は、生まれて初めて味わうものだった。本当にびっくりした。あれはなんと説明すればいいものか。社会的にどんな問題が起きているか、本や報道で知識として知ってはいた。でもそんなものはどうでもよくなった。どっちに転んだって、パリは人間が人間として暮らせる街だとわたしは感じた。人が人として扱われている。店の主人と押し問答のあげくに追い出されたホームレスだって、人間として尊重されているように見えた。そんなバカな、ではない。あの感じは、実際に見てみなければわからない。

わたしは何をしても楽だった。人と接していてあんなに楽しいと思ったことはない。メシも旨かったし、人混みの中を歩くのも楽だった。これまで「人を幸せにしない国」で育ってきたことが骨身に沁みる。恵まれた国に生まれたことを感謝しろと言われても納得できなかった理由がわかった。

あっちにあってこっちにないもの、それは "対等" の感覚だと思う。それは、たとえば醜い東洋人を相手にしても、考える前に体が反応してしまうような、細胞レベルにまで浸透した感覚なのではないか。相手を自分の上にも下にも置かないから、"善意" や "親切心" なんかとは違う本当の人間味が伝わってくる。おかげで、わたしだって生きててもかまわないんだって思えた。「おもてなし」なんていう、職業差別の裏返しの独善的なことを言ってられるのは、そもそも人間性に対する健康な認識が欠落しているからだ。

何かの「立場」に立たないと人と関係が結びにくい社会は息苦しい。日本の「おもてなし」は、金を払う客の側と接客業の側、その2つの立場をそれぞれが仮面をかぶって演じないと成立しないから。その延長で「外国の方々をお迎えする日本人」っていうもう1つの仮面をつけることが、本当に相手を人間として扱うことになるんかね。そんなのに迎えられるのは、あたしだったらまっぴらゴメンだね。

 

どこで撮っても遠近法の教科書みたいになるのは何ゆえか

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あーでもポルトガルも相変わらず好きなのよ。しかもこんなもん見たら、また行きたくなっちゃう。この際リスボンだけでもいいから。


Lisboa, a fantastic city - YouTube

難点はポルトガル語の発音がむずかしいこと。この前行ったときも、飲み物の注文もロクにできなくて悔しかった。でもポルトガルのラジオとか聴いてるとウットリしちゃうからね。なんかロマンチックなんだ、ポルトガルポルトガル語は(あくまでもポルトガル!)スペイン語カタルーニャ語やイタリア語なんかと比べても色気がある。まあイタリア語も嫌いじゃないけど、イタリア語にはポルトガル語みたいな子音の陰影や優雅さがない。フランス語は実利的で明快で切実な感じ。謎めいたところが足りない。いつかもういっぺんポルトガル語にトライしてみたいです。