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藤圭子趣味

下手物には上手物とは違う味わい方があるという

何に乾いてんだかわからんが

藤圭子 ★面倒だったらこれだけ読んで★

もう飽きたと言いながら、気がつくと藤圭子についてなんか新しく書かれてないか、いっしょけんめい検索してたりする。藤圭子からストーリーを取っ払って "事実としての音を聴け" とかわたしは言うが、藤圭子が「聴きたい」歌手である以上に「読みたい」歌手であることも否定できない。

何を読みたいというのか。くだらない "ストーリー" なんかどうでもいい。どういう生き方をしたとか、本人が何を考えていたかとか、それももしかしたらどうでもいい。新宿にからめてとか、時代にからめてとか、そういう凡庸な発想の書き物は出尽くしている。

欠落しているのは、藤圭子に対する思い入れがない人間によって書かれた、一曲一曲の歌に関するフラットでニュートラルな論評だ。だいたい藤圭子というのは、思い入れだけが強い、見当外れの暑苦しい人間にまとわりつかれるか、まったく無視されるかのどっちかの人である。そういうのは歌手とは言わない。芸能人・タレントである。

藤圭子はタレントだったのか。いや、タレントは立派な専門職ですよ。藤圭子というキャラクターを演じたタレントであったっていう、一面の真実もある。でも藤圭子はいちおう「歌手」であるとされていた。ところがよくよく見てみると、デビューからこのかた、文字媒体の世界で歌手として扱われた形跡がほとんどない。歌手であるとは見なされていないのだ。ある一時期にものすごく人気があったテレビタレントでしかない。事実としてそうなんである。歌手であるならば、ファンではない、音楽全体に目配りがきく人間によって論評が加えられていなければウソである。特段の思い入れがない人物が藤圭子の楽曲そのものについて検討を加えている例は、この本しかまだわたしは見たことがない。

パリからの演歌熱愛書簡

パリからの演歌熱愛書簡

 

 

思い入れだけの暑苦しいファンが全員くたばって、地層が一つか二つ堆積して、物好きな趣味人がある日 "ことのついでに" 掘り出したものの中に紛れているのを発見されるみたいな面倒なプロセスを踏まないと、まともに論評されることはないということなのか。でもわたしは今読みたいんである。

自分が読みたいものを自分で書くような芸当はできない。だから誰かなんかドライでクールでピリっとしたやつを書いてくんないかなって探したりするわけだが、そういう論評の片鱗すら見つけることができない。

なあ、あんた何か書いてくれよ。